02 Legend (RootDown伝説)
<1>
いつものように一人で飲んでいた。
9時を廻り、ハイボールは3杯目になっていた。
ここはCafe&Bar・「ROOTDOWN」
相変わらず一人の客が多い。
私を含め、喧騒を離れ、心の放牧にやってくる。
同僚も、家族も今は柵の外。
JAZZと言う音の原っぱに散歩に来るのだ。
珍しくガラス扉の向こうから二人連れが入って来た。
最初は男で、次に女。ともに50歳は超えている。
カウンターではなく、2つあるテーブル席のひとつに腰を下ろした。
女に見覚えがあった。
いや、忘れたことがないと言ったが正しい。
15年以上前、一時暮らしたことのある女だ。
―まさか!ここで。
連れは私と同じくらいか?見事な銀髪に同じ色の髭で口の周りを覆っている。
女の顔に赤みが差しているのは、2軒目か?
あまりアルコールの強い女ではなかった。
今も変わりないのか?
<2>
女との出会いは、やはり同じようなジャズバーだった。
女はその店に入ってくるなり、流れていたピアノトリオに反応した。
「マスター、この曲、誰?」と、聞いた。
その声と店の電話が鳴るのが同時だった。
マスターは、芝居やバンドのチラシがところ狭しと張られた衝立の後ろに引っ込んだ。
私はすかさず「キースジャレット」と言っていた。
その頃の私は、ジャズピアノといえばキースしか知らなかったのだ。
「キースのわけないでしょう!」
女は丁寧に、軽蔑と怒りにあきれた顔を添えて返してくれた。
出会いに法則なんてない。
こんなきっかけでも十分にお友達になれるのだ。
電話が終わって戻ってきたマスターに、女は再び聞いた。
それは、KennyDrewのヨーロッパ三部作のひとつ、「IMPRESSIONS」
邦題「パリ北駅着・印象」だった。
今だから言えるが、確かに後期のケニーのピアノは繊細でメロディも分かりやすく、
男ならずともファンは多い。
私はその年のクリスマスプレゼントとして、女に「ヨーロッパ三部作」を送った。
<3>
Pat Martinoのギター「EXIT」が終わった時だった。
「マスター!リクエストしてもいいかしら」
決して大きな声ではないが、少し高音の声は相変わらずよく通った。
「どうぞ、ほとんどあるはずですけど?」
マスターは数少ない女の客に笑顔で応えた。
「ケニードリューの『IMPRESSIONS』」
女の声はストレートに、今度はマスターにではなく、私の背中に飛んできた。
―気づいていたのだ。
彼らが店に入って来たその一瞬、私たちは顔を合わせたに過ぎない。
私たちは久々にあの頃に戻って、KennyDrewを別々の席で聞いた。
終わるのを待って女は席を立った。
私から一番遠いカウンターの隅で支払いをすませた。
帰ろうとして、正面の神棚にその時初めて気づいたらしく、二人は一瞬顔を見合わせた。
しばらくして、私もスツールを降りた。
マスターは帰りかけた私に、2つに折られた紙切れを渡した。
「先ほどのご婦人がこれを?」
私は黙って受け取り、開いた。
想像通りだ。
そこにはyukoで始まるメールアドレスが記されていた。
マスターに灰皿を借り、その場で火をつけた。
ねじられた紙切れから上がった煙は空中で絡み合った。
悠子も私も、しばしタイムスリップしたに過ぎない。
この空間の出来事はガラス扉の向こうには持ち出せないのだ。
もちろんガラス扉の向こうから持ち込めるものもない。
ROOTDOWNは、人が思い出した時にだけ存在する、心の空間なのだ。
◇
そう言えば今日は7月7日。
あいにくの曇り空。
天の川は見えない。
織姫と彦星の身代わりとなった誰か?を、地上であわせくれた粋なCafe&Barは、
ガラスの扉にレコードをデザインしたロゴがあるらしい。