03 Labyrinth (ピアニストの孤独)
<1>
店を開けてまもなくだった。
外の明るさと、照明を落とした店の暗さがその人影を一瞬シルエットにした。
人影はガラス扉に押されるように迷い込んだ?一人の老人だった。
「いらっしゃいませ」
マスターはいつものように、今日一番のゲストに声をかけた。
ここはCafe&Bar・ROOTDOWN。
メインメニューはJAZZ
老人は途方にくれたように店内を見回し、しばらく音の洪水の中にたたずんでいた。
やがて我に帰り、暗さになれた目が、両脇にスピーカーを設えた正面の神棚に気づいた。
使い込まれた帽子を取り、黙って手を合わせた。
年は70歳くらいか、さして高くない身長でスツールによじ登った。
「ウィスキーをくれんか?それとつまみを適当に」
それだけ言うと目を閉じ、再び音の中に入り込んだ。
<2>
いつしか、ひとりまた一人と、いつもの誰かがカウンターを埋めていった。
9時をまわり、いつものROOTDOWNらしくなって来た。
マスターはコルトレーンの「LUSH LIFE」に針を落とした。
それが合図でもあるかのように老人は顔を上げ、乾き始めたサラミを一切れ口にした。
十分にかみ締め、ウィスキーで流し込んだ。
そして、搾り出すように言葉を吐いた。
「オーネット・コールマンがかつて、
『私が“平和”という曲で吹くFの音は、“悲しみ”という曲で吹くFと同じであってはならない』
と言う名言を吐いた」
それぞれ “音”とだけ会話していた心優しき隣人たちは、
突然の言葉に驚き、しかしその言葉の重さを感じ、独り言の続きを待った。
この時コルトレーンはBGMになった。
「管は人の息遣いだ。ピアノにそれが出来るか?指でそれを伝えられるか?出来るかもしれん。
しかしワシには出来んかった。」
誰もがこの老人がピアニストであり、自分たちの向こう側の人間であることを知った。
「そう思えば思うほど、指と心が離れていった。」
カウンターにのせた節くれだった指を見つめながら一言、一言かみ締めるように吐き、
そしてそれを封じこめるように、一気にウィスキーを流し込んだ。
正直すぎた老ピアニストの突然の懺悔に、カウンターはよりいっそう静まりかえった。
店の空気が明らかに自分中心にまわり始めたことに気づいた老人は、
「いかん、いかん、年寄りの愚痴じゃあ。
最近はどうも独り言が多くなっていかん。聞き流してください」
誰にともなく、照れ笑いで隠しながらそう言った。
いつの間にかコルトレーンが終わり、一瞬店内から音が消えた。
<3>
音のないROOTDOWNを、老人の言葉が余韻となって満たした。
誰もがここROOTDOWNで初めて、ミューシャンの本音と、
JAZZのその奥深さに言葉を失い、ひとり一人の心の対話が始まった。
マスターもしばらく針を落とすのを止めた。
― 開店以来はじめての経験だ、音のないROOTDOWNなんて。
―クリープのないコーヒーみたいか?古いね、俺も。
<4>
しばらくしてガラス扉が開き、一人の客が夏の夜の熱気と共に入って来た。
―さて、そろそろ、本日、2回目の開店でもするか?
「いらっしゃいませ!」
いつもより大きめの挨拶に、カウンターの全員が、
魔法を説かれた子供のような顔をしてマスターを見た。
マスターはその全員を無視して老人に向かい、言った。
「コーヒーでも煎れましょう。私も飲みたくなった、付き合ってください」
「ご馳走になろう。確かに酔ったのかもしれん。すまんかった」
老人は氷の解けた3杯目のグラスをマスターの方に押した。
「いいえ、いいお話でした。」マスターは素直に言い、
ドリップの用意をするために、ガラスケースの向こう消えた。
そこには、数千枚のレコードがある。
ほとんどが原版だ。
その中から一枚を見つけ出すのに、それほどの時間はかからなかった。
それはかつて、老ピアニストがたった一枚出したアルバムだった。
彼が帰り、客も帰り、一人になったら改めて聞いてみよう。
―今夜のつまみはこれで決まりだ!
―きっと、今夜の酒は旨い。
*参考資料:EXPRESSIONSライナーノーツ