05 Intruder (可愛い闖入者)
<1>
「ここで雇ってもらえませんか?」
そう言いながら、自分が入れそうな大きなスーツケースを引きずり、その娘(こ)は入って来た。
「そういう店じゃないんだ」
開けたばかりの店で、相変わらずグラスを磨きながら、マスターはそうたしなめた。
ジーパンにカットソー、ショートカットの髪はやや茶色。
ウエッジソールのサンダルは、その娘(こ)の身長にかなり味方していた。
左手首に水玉のバンダナを結んでいる。20歳くらいか?
店の外に"女性客お断り"の貼紙でも誰かがいたずらに貼っていったのかと思えるほど、
こんな異邦人を除いて、女に縁のない店だ。
いや、女が縁を持ちたくないのか?
<2>
ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
男女来店均等法でもあれば、真っ先に手を上げるのだが、
どういうわけか、男にだけ妙に人気がある。
忘れた頃に返事が返ってきた。
「そうみたいですね」
店の暗さになれ、正面の神棚に驚き、いつものROCKではない音楽が鳴っていて、
時々行くおじいちゃんの家(うち)で見た様なインテリアで、
その上壁の写真が古臭くて、水商売に絶対に見えないマスターを見て、
その娘は素直に言った。
最初の言葉と2番目の言葉に微妙な心境の変化が読み取れた。
マスターは改めてその娘を見た。
妙な娘が舞い込んで来たもんだと半ばあきれながら、
しかしこの娘自身は大切に育てられたような感じがした。
<3>
「ビール頼んでもいいですか?疲れちゃった」
そう言うと、マスターの返事も待たずに近くのスツールに飛び乗った。
「ああ、どうぞ。ビールなら売るほどあるから」
マスターは普段は絶対に言わない冗談を言い、なんとなく調子を狂わせられてると思いながら、この子は喉を潤すためだけに腰を落ち着けたのではないと感じた。
明らかに音に反応しているのだ。
しばらくして、「これってJAZZですか?」
人差し指をくるくると天井に向けてまわしながら言った。
そこにあふれている音を指しているらしい。
「アート・ブレーキーの『チャニジアの夜』だ」
マスターはこの異邦人にどう対処すべきかまだ迷っていて、ぶっきらぼうに応えた。
「JAZZなんて、ゆっくり聞くのは初めてだけど、カッコいいかも」
―やっぱりだ。
まだ少し時間がある、"男"の常連たちが来るまでに、
しばらくこの子にJAZZのお勉強でもさせてやるか?
オスカー・ピーターソンのピアノ、コルトレーンのサックス、
ジム・ホールのギター、マイルス・デイビスのトランペット、ジミー・スミスのオルガン、ステファン・グラッペリのバイオリン、と立て続けに針を落とした。
あまりやりたくはないがROOTDOWN特性ダイジェストだ。
次から次へと押し寄せる音の洪水にその娘はさらに反応していった。
「すごい!JAZZってすごい」
「へぇ、こういうのが全部JAZZなんだ」
一通り聞き終えてその娘は言った。
いつの間にかビールをあけ、水割りに変わっていた。
<4>
そろそろ常連様ご一行が、ばらばらにどこからともなく現われる時間だ。
最初にガラス扉を開けて入って来たライターの芝野は、店を間違えたとばかりに一瞬固まった。
そこに、この店ではじめての光景を見たからだ。
(マスターが若い女と話している。この店で若い女が酒を飲んでいるなんて)
この日はカウンターの11のスツールと2つテーブルがすべて埋まった。
―客を呼ぶ客と言うのは確かにいる。この娘がそうかもしれない。
マスターはふと手を休め、思った。
「私、手伝います」
素直な提案をマスターは受け入れた。
テーブル席へのサービスが手いっぱいになっていたからだ。
「はずきちゃん!」
いつの間にか名前を聞きだした芝野が、マスターではなく、彼女に注文した。
―久しぶりだ。音以外に、客の声が華やいで聞こえるのは。
その声はすべて「はずきちゃん!」だけだが。
心なしか芝野のピッチが早くなっている。
<5>
気がつけば、ひとりまた一人と、客は来た道を戻っていった。
最初の二人に戻って、今度はカウンターに並んで水割りを飲んでいた。
「お疲れさん」と言ってマスターは改めてはずきのグラスに自分のグラスを当てた。
「お疲れさんでした。楽しかったです。これからJAZZにはまりそう」
「いいことだ」
マスターは、本当にいいことだ、こんな風に誰もがJAZZ好きになってくれれば言いと思った。
「帰ります、お勘定して下さい」
「3200円」マスターは即座に答えた。
千円札3枚に100円玉2個がカウンターに並べられた。
「時給800円か?ちょっと安いかも知れないけど、これ」
と言ってカウンターに並べられた3200円を集めてそのままはずきに渡した。
「えっ?」はずきは目を丸くしながらマスターを見た。
「えっ?君はなんて言ってこの店に入って来たんだっけ?」
「・・・・・・・・・」
はずきは数時間前の自分をすっかり忘れていた。
「雇ってもらえませんか?っ言わなかったっけ」
二人は顔を見合わせ、そして声を出して笑った。
「でも今日で馘首ですよね」
寂しそうな顔に、目だけが笑っていた。
―賢い娘だ
「当然だ!君がいると、私は単なるレコード係になってしまう」
二人はもう一度笑った。
「だいぶ遅くなった。君がどこから来て、どこに行こうとしているのか知らないけれど、
お客さんだったら履歴書は要らないから」
「さあ、私の取って置きの一枚で送ってあげるから」
マスターはそう言ってガラスケースの向こうに消えた。
一人残されたはずきは、
ミュートのかかったトランペットにしばらく耳をかたむけ、やがて店を出た。
◇
―不思議な娘(こ)だった。
ROOTDOWNが、たかが小娘にジャックされた感じだ。
ガラスケースの向こうで、数千枚のレコードに囲まれマスターは思った。
そして、手にしているジャケットのマイルスが一瞬、笑顔を見せた?ような気がした。