06 Old Flames (むかしの女)

<1>

ひと目でそれと分かる男が入ってきたのは、9時を半分くらい廻った頃だった。

風体ではない、人を威圧する空気感を持っているのだ。

瞬く間にその空気感は店全体に伝わった。

そして、誰もがかかわりを拒んだ。

そんな反応を背中に充分に感じながら、男は正面の神棚に黙って手を合わせた。

丁寧に仕立てられたピンストライプのダークスーツに身を包み、

まだ40歳前?の精悍な顔は汗ひとつかいていない。

熱気と湿気の中を歩いて来た?感じでない。

ついそこまで、冷房と一緒に移動してきた顔だ。

ここはCafe&Bar・ROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

曲は選べても客は選べない。

 

<2>

ソニー・ロリンズの「Old Flames」邦題「薔薇の肖像」に針を落として間もなくだった。

「水割りをもらうおうか」

ひとつだけ空いたスツールに腰を滑らせ言った。

しばらく店から言葉が消え、円盤の中のミュージシャンだけが語っていた。

ソニー・ロリンズのサックスがトミー・フラナガンのピアノソロに代わった。

男の指がわずかにカウンターの鍵盤を叩いた。

確か前の曲でも同じようなリアクションをしていたことをマスターは見逃さなかった。

普段、めったに話しかけないマスターが、口を開いた。

「お客さん,ピアノを・・・・?」

「ああ、昔少しな。ヤクザにピアノは似わねぇか」

決して挑発的ではなく、自嘲気味に言った。

「でもな、無性に聞きたくなる時があるもんだ」

「分かります。私も牛丼が月に一度くらい無性に食べたくなる時がありますから」

マスターの思わぬあいづちに、しかし、男の反応は以外だった。

「分かる!俺も牛丼は嫌いじゃあない。どっちだ?ヨシノヤか、マツヤか」

「やっぱりヨシノヤですね。マツヤに比べて味が深い気がしますよ」

「そうか、やっぱりヨシノヤか。でも、味噌汁は絶対にマツヤの方が旨い」

「同感です!」

自分たちが場違いな話をしていることに、ふと気づいた二人は、声を立てて笑った。

音だけしか聞こえない静まり返った店内に、

その笑い声は響き、常連たちの緊張感が一気にほぐれた。

 

<3>

やがてソニー・ロリンズ終りに近づく頃、

荒々しくドアが開かれ、数人の男が入ってきた。

「兄貴!探しましたよ」

男の後姿に、その中の一人が言った。

「すぐ行く。外に出てろ!」

男は彼らを見ようともせず、落ち着いた声で言った。

そして、「俺に許された時間はたった56分か・・・」

「それにしても『Old Flames』ってのは、『昔の女』って意味だろう。

今度これを聞くことがあったら、女どころか牛丼を思い出しそうだぜ」

と、言う男の苦笑いにマスターもつられた。

―56分、「Old Flames」一枚分の時間だ。

マスターは男の別の顔を確かに見た。

男はスツールを下り、1万円札をカウンターに置き、ガラス扉に向かった。

「お客さん!」その後のおつりを、と言うマスターの言葉を遮るように、

「やかましい馬鹿共の分だ」と振り向かずに言った。

出て行った男とすれ違いに、街の熱気が一瞬店内に流れ込んだ。

その熱気は凍りついた店内の残滓を一気に溶かした。

その後にはいつものROOTDOWNがあった。

 

―ヤクザのピアノか? 

ジャズメンの中にはその強烈な個性ゆえに発狂したり廃人になった人間は数知れない。

ヤクザの世界はよく知らないが、彼の強烈な個性がまた、

ヤクザの世界でのし上がらせたのだろう。

その同じ個性で叩く鍵盤を、一度聞いてみたいものだ。

常連のホッとしたいつもの顔を見ながら、マスターは全く違うことを考えていた。