08 Requiem (友よ、聞こえるか)
<1>
その男が入って来た時違和感を覚えた。
ダークスーツといえなくもないが明らかに喪服だ。
さすがにタイははずしているが、かすかに白いものがそのスーツに付着している。
よく見ればそれが"塩"であることに気づく。
清めの塩を店の前で軽く振って入って来た感じだ。
律儀だとほめる気にはなれない。
まっすぐ、自分の"巣"に帰れない事情を抱えている。
マスターはこの初めての客が天使か悪魔か図りかねた。
ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
<2>
「ジャックダニエルを、ストレートで2つ」
その男はスツールに腰を落ち着けるなりいきなり言った。
スツールは11、その男ですべて埋まった。
「2つ?」
その声は10のスツールの客とマスターにも確かに聞こえた。
一瞬耳を疑ったが、あえて聞き返しもせず、
マスターはしっかり磨きこまれた2つのロックグラスにバーボンを注ぎ、カウンターに置いた。
男はそのひとつを取り、カウンターに置かれたもうひとつに当てた。
乾いたグラスの音が、ビブラフォンと重なった。
マッコイ・タイナー&ボビー・ハッチャーソンの「MANHATTAN MOODS」が流れていた。
男は一気にそれを流し込んだ。
味わう感じではない。
むしろ焼けるような液体を流し込むことで自分を責めている感じだ。
マスターの予感は悪魔の方に少し針が振れた。
「お作りしますか?」
空のグラスを目の前にしては、さすがに営業トークを吐かざるを得ない。
「同じものでよろしいですか?」と念を押した。
「頼む」
そう言いながら、男はうつむいたまま、早く酔いが来ることを祈っているかのようだ。
マスターは2杯目をつくりながら、店の雰囲気が右肩下がりになっていることを感じだ。
男は2杯目も一気に空けた。
さすがにマスターは営業を止めた。
悪魔のほうに一気に針が振れたからだ。
しかし男からは3杯目のリクエストはなかった。
<3>
しばらく、両手で空のグラスを挟み、見つめたまま動かなかった。
やがて男はその重い口を開いた。
「ビル・エバンスってあるかね?」
唐突なその男の言葉に、マスターはまた耳を疑った。
「はい。ビル・エバンスは何枚かありますが、何を?」
「私はJAZZはよく分からない。ただあいつがそのビル・エバンスが好きだった」
「会って、飲んで、酔っ払うといつも、私にビル・エバンスはいい、
とにかく一度聞いてみろ、とそればっかり言っていた」
「結局最後まで聞いてやることはなった。こんなことならもっと早くに聞いておけばよかった。
その後で、つまらん!でも、最高だ!でもいい。それを肴にあいつともっと語りあいたかった。」
この言葉は、悪魔に傾いていた針を一気に天使の方に戻した。
2つのグラスの理由も、"巣"にまっすぐ戻れない理由も、
そして彼にとってはこのROOTDOWNのガラス扉が城門より重かったこともマスターは理解した。
「分かりました」
「それでは、JAZZが好きだったそのご友人のための一枚は私が選ばせていただきます」
そう言うとマスターはガラスケースの向こうに消え、選んだ一枚に針を落とした。
ビル・エバンス「Waltz for Debby」
カウンターに戻り男に言った。
「ご友人ために、私から」と言ってマスターは男のグラスを満たした。
それにならうようにスツールの隣人たちは、ビル・エバンスを聞きながらグラスを掲げた。
<4>
死はこちら側の人間にだけ許された特権なのだ。
あちら側では自分が、死んでいるのか生きているのかさえわからないのだから。
確かに生きていた"誰か"を、いつまでも覚えていてやることが、
残された人間に唯一できることなのだ。
やがてその自分もまた、誰かの思い出の中に生きることになる。
◇
ビル・エバンスを好きだった誰かの旅立ちを、ここにいる心優しき隣人たちは確かに見送った。
あちら側のビル・エバンスにぜひ、会えることを祈りながら。