16 Mysterious (二つの顔)

<1>
私はこの日、出掛けにトラブルを抱え込み、出勤?した頃には、
カウンターにいつもの私の席はなく、珍しくテーブル席に座ることになった。
考えてみれば、テーブル席に座るのは今日が初めてだ。
カウンターに比べ目線が下がる。
マスターがレッド・ガーランドの「GROOVY」に針落とした時だった。
ガラス扉を開けて入ってきたのは足?だった。
そう、テーブルの目線からは、まさに足が入ってきたとしか思えなかった
マイクロミニからすらりと伸びた足を、さらに3インチはあるピンヒールに乗せている。
小学生なら、大きく開いたその間を通過できそうだ。
誰もが振り向いたが、すぐにその地球外生物とお知り合いになるのは難しいと悟った。
「恭子ちゃん!」
そう言ったのはマスターだった。
名前で呼ぶ慣れなれしさに、今度はマスターと、その恭子と呼ばれた女に交互に再び視線が集まった。
そんな場違いなどものともせず女は、店頭に置かれた等身大の写真のようにその場に立ち、
マスターの指示を待っていた。
マスターは店内をすばやく見渡し、目が合った私に言った。
「いいですか?ちょっと相席してもらって」
カウンターにいた全員がこの時、もう少し遅れてくればよかったと言う後悔と羨望の目で私を見た。
私に訪れた幸運は、それにしては大きすぎた。
大きすぎる幸運は、それと同じくらいの不安を連れてくるものだ。
人は誰も幸せに慣れていない。
ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ

<2>
「相沢といいます」
「すみません、無理言って」
緩やかにウェーブのかかった髪を左手でかきあげながらそう言って座った。
額にはわずかに汗が滲んでいた。
当然、テーブルに足が閊え、足を組んで、横にずらした。
おそらくヒールも手伝って1m75cmはあるだろう。
私とほぼ同じだ。
お見合いパブに突然放りこまれた私は、地球外の女神を前にして、
にらめっこぐらいしかすることがなかった。
恭子と呼ばれた女は、それでも目線をはずさないので、自然と私はうつむく羽目になった。
カウンターの隣人たちはこの時だけ背中に目を廻している。
マスターはカウンターを出て、女のためにハイボールと封筒を、一緒に持ってきた。

「ありがとうございます。これから社に戻らなくてはならないので。でも、一杯くらいなら?」
そう言って女はハイボールを掲げた。
私は怖いもの見たさに、もう一度視線を上げそしてまた下げた。
かと言って大きく開いた胸元にまで下げないように注意しながら、
挙動不審な男のように焦点を捜し求めた。やっと神棚に定まった。
―神様、この息苦しさは何でありますか?
まるで水でも飲むようにかるく空け、曲が終わるのを待ち、ありがとうございました、
と私に頭を下げ、マスターに「じゃあ、頂いていきます」と言ってガラス扉から足は消えた。

<3>
この一瞬の出来事は、マイクロミニの残像とかすかなイブ05の香りだけが、
夢ではないことを教えてくれたが、それにしてもあのミステリアスな女は誰だと、
当然、マスターは集中砲火を浴びた。
恭子と呼ばれた女は雑誌の編集者だった。
マスターはその雑誌にペンネームで毎月コラムを書いていた。
いつもは喫茶店か自宅でその原稿を渡していたが、今回は締め切り間際までテーマが決まらず、
店に取りに来てもらうことになったというのが事の真相だ。
手品と同じで種明かしまでが面白いのだ。
小学生の遠足も楽しいのは、その前の日の夜までだ。
それで恭子ちゃんの話は一旦中断になったが、今度はそのコラムの事がこれまた当然、話題になった。
なんという雑誌で、何と言うペンネームで、いつごろから書いているのか?
その雑誌は今、ここにはないのか、などなど。
マスターは
「勘弁して下さい。そんなたいそうなもんじゃあないですよ。
自信があったら皆さんに聞かれなくても、自分から言ってますよ」
と言ってそれ以上のことはがんとして拒否した。

話は当然これだけでは終わらなかった。
常連たちの魔女狩りが始まった。
あらゆる音楽雑誌をチェックし、それらしいものをピックアップした。
しかし、らしきものはあるものの、
それがマスターのコラムだと特定できるものにはたどりつかなかった。


マスターは客の帰ったテーブルでパソコンに向かい今日もコラムを書いている。
ジャズバーを舞台にした、ミステリー仕立てのコラムで、
文末に今月の一曲と題し、コラムの中で使用したJAZZを紹介している。
それなりに評判がいいらしく、もう2年も続いている。
今月のテーマは、先入観だ。
好奇心だけが旺盛な常連たちがたどり着けなかった、その先入観だ。
ジャズバーのマスター、イコール音楽雑誌。
この先入観が常連たちの目を曇らせたのだ。
マスターのコラムは某婦人雑誌で、にわかに女性JAZZファンを作りだしている。