18 Annex (さらば、東京)
<1>
「今日で最後か・・・・・・」
峰岸はひとりつぶやいた。
荷物はすべて送った。
明日は身の回りの小物をつめたバッグひとつで東京を後にする。
父親が倒れ、家業を継がなければならなくなったのは一月前だ。
それまでの不動産会社に辞表を出し、喜んで受け取られた時は、
自分の東京の人生がいきなりリセットされたと思った。
東京を離れる決心を、思いっきり後押してくれたのは15年間勤めた会社だった。
なんて皮肉な最後だ。
引継ぎを終え、形ばかりの送別会に顔を出し、時間を惜しむようにここにたどり着いた。
東京の最後はここにしようと一ヶ月前から考えていた。
ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
今日もワケありの隣人たちが、こころの洗濯にやってくる。
<2>
リー・コニッツの「Motion」が流れている。
それをBGMに峰岸の回想が始まった。
ここに通い始めたのは5年前だ。
ジャズ研にいた峰岸はそれなりに知識と聞く耳を持っていると自負していた。
しかしここに通う間に、マスターの一言や、「これ聞いてみますか」と、
針を落とした一枚に、自分の知識や感性がさらに磨かれた気がする。
ここは自分にとって、オアシスであり、道場でもあった。
グラスを手に持ち、くちをつけるでもなく、ぼんやりしている峰岸にマスターが声をかけた。
「元気ないですね?峰岸さん」
「そんなことないですよ」と、いきなり話かけられた峰岸は反射的に応えた。
しかし、その声は心ここにあらずと言う感じだった。
マスターは客との距離をなるべく一定に保つようにしてきたが、今日は一歩だけ踏み込んだ。
「私の知り合いに地方の名士の息子がいましてね。
彼が今度倉を改造して喫茶店を開くことにしたそうなんですよ。
もちろん、自分が一日中ジャズが聞きたいために、たくらんだことですけどね」
「いい年をして、自称小説家なんて言っていますが、何もしないでぶらぶらしている彼に、
それでも親は喜んで倉と改装資金を提供したらしいですからね、
うらやましい限りですよ。どうせ採算度外視だろうし」
マスターのそんなうらやましそうな話に、峰岸の思い一気に生家の上空に飛んだ。
<3>
そう言えば家にも離れに倉があった。
「倉って音響効果はどうなんでしょう?」と峰岸は独り言の様に問いかけた。
マスターは「さあ、どうなんでしょうね。ただ窓はほとんどないし、
土壁だったら反射はほとんどないでしょうから、聞きやすいんじゃあないですか?」
と思いつくままに答えた。
(そうか、倉か!気がつかなかった)
マスターの答えに峰岸はあらためて、倉の存在を強く意識した。
マスターも峰岸の変化に気づいた。
「実は言わないでこのまま帰ろうと思っていたんすが・・・」
峰岸はこれまでと、これからを手短に話した。
マスターは決して愉快ではない話だけに、黙って聞いていた。
「でもマスターのおかげで、家に帰りたくなりました」
何かをふっきり、何かを始める男の顔がそこにはあった。
「そうですか、寂しくなります」と師匠が言うと弟子は、
「いろいろありがとうございました。がんばって、親父の後をきっちり継いで、東京に支店を作ります。
そうすれば、また東京に出てくる口実が作れます」そう言うと嬉しそうに笑った。
マスターもたまたま話した友人の話が峰岸にどういう心境の変化を与えたのかまでは分からないが、
沈んでいた峰岸が、笑ってこのROOTDOWNを後にしてくれるのだけが嬉しかった。
「最後のリクエストは?」
チェッカーズにこんな曲があったと心で苦笑いをしながら峰岸に聞いた。
「あれっきゃないでしょう!師匠のお勧めは」
マイルス・デイビスの「クールの誕生」だ。
◇
数ヵ月後、一枚のはがきが届いた。
静岡の消印だ。
裏を返すと、倉を改装したらしいオーディルームに、
峰岸がレコード盤を手に座っている写真がふちなしで収まっていた。
レコード盤にしては何かおかしいと思いよく見ると、
そこにはROOTDOWN・ANNEXと書かれていた。
―勝手に支店を作りやがって。でもたった一人のためのROOTDOWN、に、
またうらやましいやつが一人増えたと、マスターは嬉しそうに笑った。