23 SAKE(海の地獄)

<1>

「日本酒はないだろうね?」

カウンターに座るなり、その老人は言った。

「申し訳ございません」

マスターは注文もさることながら、この店のガラス扉を開いたことそのものが、すでにこの老人の間違いなのでは?と思った。

「仕方ない。それではビールでももらおうか」

「かしこまりました」と言いながらマスターは、場違いではあるが、ここを目指した覚悟?のようなものをその老人に感じた。

カウンターには3人の常連が奇異な目で老人を見ている。

この店で日本酒を注文したおそらく最初の客だ。

しかしその風体と注文は実にマッチしている。

決してみすぼらしくはないが、身に着けているものの古さは隠しきれない。

良く見ると着慣れてないぎこちなさが、そのスーツを貸衣装にしてしまっている。

顔とその下がなじんでいないのだ。

白髪交じりの髪は短く刈ってあり、顔は赤黒い。

日に焼けただけの色ではない。

ここはCaféBarROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

今日もシリアスなドラマがメインメニューに色を添える。

 

<2>

しばらくしてその老人が口を開いた。

「こういうのをジャズと言うのかね」

ハービーハンコックの「処女航海」が流れている。

マスターは質問の意味を図りかねて、

「ハイ、他にもいろいろありますが・・・」とだけ言った

「難しくて、やかましくて、わしのようなもんにはよう分からんが・・・・・」

「確かに、とっつきにくい面はありますね」と、マスターは素直に答えた。

 時々、ジャズをファッションとカン違いして、迷い込む若者がいるがそれとは違う。

明らかにジャズに対して嫌悪感を抱いている。

  むしろ、恨みさえ感じられる

マスターは、先ほど感じた老人の覚悟のようなものの正体が見え始めたと思った。

老人はさらに続けた。

「息子が今日、アメリカに行った。ニューヨークでジャズの勉強をしてくると。しばらく帰らんとも。ジャズの本場と言うのはやっぱりアメリカなのかね。アメリカに行かんとだめなものかね?」

「さあ、それはなんとも言えませんが、日本のミュージシャンのほとんどが、確かにアメリカに行っています。息子さんもミュージシャンでしたら、一度は行ってみたかったんじゃあないですか?」

ミュージシャンだと言う、この老人の息子の側に立つことは、老人の言葉や態度から考えれば、むしろ余計に反感を買うだけだと思いながらも、マスターはそう言わざるを得なかった。

それは自分の果たせなかった夢でもあったからだ。

ジャズとアメリカに息子を奪われた老人の怒りとあきらめが、この店の扉を開けさせたのだとこの時知った。

そして、客の心を癒すはずのジャズが、この招かれざる客の前では心を逆なでするだけなのか?とマスターは複雑な気持ちになった。

「漁師のせがれがアメリカに行く時代になったらしい」

老人は誰にともなくつぶやいた。

 

仙台の田舎町で漁師をしているというこの老人は、まるで息子をすでに帰らぬ人と決めつけている様子だった。

この老人にとってアメリカは、今でも日本と戦争をしたアメリカでしかなかった。親兄弟を奪ったアメリカでしかなかった。

 

<3>

老人は酔いも手伝ってか、様々な記憶が甦り、ぶつけどころのない怒りや悲しみを一気に口にした。

「戦争で人が死に、大漁で魚が死ぬ。おやじも漁師だった。その息子が漁師になるのはあたり前の時代だった。しかしわしは、自分の息子を漁師にだけはさせたくなかった。わしだけでたくさんだ。自分が生きるための殺生は」

泡の消えかかったビールを一気に飲み干すと、そのグラスの淵に両手を添えて、遠くを見るように続けた。

「人間は海から生まれたというが、わしもやがて海に帰る。喜んで海の地獄に行くつもりだ。そんなことで許してもらおうとは思わんが・・・・・」

汐に焼けた顔には縦横にしわが刻まれている。

その一本一本が数え切れない十字架に見えた。

この老人の痛みを記憶する人間は、もはやこの地球上にはいない。

老人にとって、あまりにも長く重い今日と言う一日は、小さなジャズバーでの懺悔で締めくくられた。

 

マスターはガラスケースの後ろに廻り、ケニー・ドリューの「Moonlight Desert‐月の砂漠」に針を下ろした。

少しでも老人のすさんだ心を癒すことが出来れば、そしてジャズの一部でも理解してくれればと、あえて滅多に流すことはないこの一枚を選んだ。

叙情的なケニーのピアノソロに続き、ペデルセンのベースがメロディーを奏で、ストリングスが重なる。

カウンターに戻ると老人が「おやっ」と言う顔でマスターを見た。

「ええ、月の砂漠です」

「これもジャズかね?」と言いながら、老人の瞳が一瞬、少年のように光った。

マスターは黙ってうなずいた。

それから老人はゆっくりと目を瞑り、しばらく耳を傾けていた。

マスターはガラスケースの後ろに廻り、次の曲が始まる前に針を戻した。

一曲のその余韻を老人に贈ろうと思った。

「ご馳走になった。そろそろ汽車の時間だ」

しばらくして、ガラスの隅に少しヒビの入った古い腕時計を見ながら、老人はそう言い立ち上がった。

その顔からは何も読み取れなかった。

           

<4>

マスターは珍しく、店の外まで老人を見送り、その後姿に頭を下げた。

人は誰もその心に闇を宿して生きている。

この老人の闇は海の底より深く暗い。

マスターは、せめて息子が一条の光となって、老人の元に戻って来ることを願わずにはいられなかった。