25 STRAY LAMBS(カウンセラーの迷走)

<1>

「またフラれちゃった!」と言いながら飛び込んできたのは、近くのスナックのママ、里美だ

その雨は、マスターが店に入るのを待っていたかのように降り出した。

ほんの数分前のことだ。

「雨宿り、出来ればコーヒーもね」

まだ灯も入っていない店に二つのシルエットと声だけが響く。

「ちょっと待ってくれるかな?今開けたばかりなんだ」マスターも奥の方から声だけで応える。

「いいわよ。雨が止むのが早いか、コーヒーが先か?どっちも私の手に負える代物じゃあないし」

里美は洗って積んであったカウンターの隅の灰皿を勝手に引き寄せ、タバコに火をつけた。

セーラムの1mgだ。

カウンターに戻り灯りのともった店内で、それにしても何故、女たちはメンソールばかりを吸うのだろう?と思いながらマスターは、おしぼりの代わりに乾いたタオルを差し出した。

「ありがとう」と言いながら里美は軽く髪にタオルを当て、そしてもう一度さりげなく言った。

「またフラれちゃった」

同じセリフだが明らかにさっきとトーンが違う。そのあっさりとした言い方が、逆に湿り気をおびて聞こえた。

聞き流すべきか、突っ込むべきかマスターは迷い、「さっき聞いた」とだけ、コーヒー豆を挽きながら顔も上げず言った。

「さっきのは雨、今のは男」

やっぱり、と思いながら黙ってうなずいた。

「適当な距離を置くって言うの?それが出来ないのよね、私。水割りは適当に作っても結構イケてるのにね」

自分の冗談に、里美は寂しそうに笑った。

里美との付き合いは長い。

ただ惚れっぽいせいか、自分が冷める前に何故か振られる。だからいつも尻切れトンボで、本当の自分に出会っていない。やがて自分が冷めて、何でこんな男に、と思うところまで続けば、次は本物がつかめるはずなのに。

優秀なカウンセラーは相手の話に相槌は打つが、決して自分の意見は言わない。自分の言葉の中にだけ、自分の生きるヒントが隠されていると相手が気づくまで、辛抱強く聞いているだけだ。

マスターは文庫本一冊くらいの大人の御伽噺を黙って聞いていた。

里美も飾ることもなく、心を開いている。

やがて里美は、二杯目のコーヒーを飲み干して、雨上がりの街に、雨上がりのようなすっきりとした顔で帰っていった。

ここはCaféBarROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

今夜も迷える子羊?のために11のスツールと2つのテーブルが用意してある。

 

<2>

「鈴虫が鳴いてるね」

そういいながら細川が入ってきた。

すでに8時を廻っている。

いつの間にか雨もやんだらしい。

「そうですか?もう秋なんですね」

マスターは季節を先取りするのは決まって花や虫だ、と思った。人間だけがいつも遅れる。

里美が再び現れたのは10時を過ぎてからだった。

今日は遅く開けたから、その分早く閉めたとわけのわからないことを言いながら入って来た。

酔っている。

細川の隣に里美は腰を下ろした。

座るなり、

「細川ちゃん、一杯おごって?いつも私が美味しい水割り作ってあげてるじゃあない?」

と、当然と言うような顔で里美が言った。

「お金、払ってますよ。ちゃんと」とあきれながら、

「でもこういうジョークは嫌いじゃあないですよ。分かりました、一杯おごりますよ。里美さんにはいつも癒されてますから」と細川が応えた。

それを聞いた里美は、細川の横顔を下から覗き込んで、

「もしかして、私に惚れてる?」なんて冗談めかして聞いた。

「ええ。僕は里美さん、好きです」

この瞬間、冗談がマジになってると、里美もそれを聞いていたマスターも驚いた。

でもその後の細川の言葉に、二人はさらに驚いた。

「僕は女の人はみんな好きなんですよ。それぞれに容姿だったり、性格だったり、特技を持っているとか。それで今まで、誰も選べずに、43歳にもなってしまったわけで」

なるほど、と最初は素直に聞いていた里美が、ふと細川の大きな間違いに気づき、

「それっておかしくない?細川ちゃんが選んでも、相手が細川ちゃんを選ぶとは限らないじゃあない。こっちが選べばハイお終いってもんじゃあないのよ」と、微妙な女心を代表して言った。

「確かにそうですね」と、細川は初めて気づいたような言い方をした。

「ただ、僕の頭の中には一本の川が流れていて、僕はこっち側で一人。反対側に僕の中学のときの初恋の相手とか、僕の好きな何人もの女の人が並んでいるんですよ。その中に里美さんもいるんですけどね。でも橋がないから、今もこちら側からただ眺めているだけで、しかもまだ増え続けているし・・・」

里美は突然、細川が違う星の生き物に見えてきた。

身長も学歴も収入も申し分のないこの男が、何故今まで独身だったのか分かったような気がした。

 

<3>

しばらく沈黙が続いたカウンターで、突然里美が言った。

「君、泳げないの?」

細川ちゃんから君に変わっている。上から目線だ。

里美はまだ、30歳半ばのはずだ。

「泳げますよ、今でも5kmくらい軽いですよ」

心外だ、と言う顔をして細川が応えた。

「だったらその川がどんな川か知らないけど、たとえ揚子江でも泳いでいけるじゃあない。橋がないなんて言ってるのはいい訳よ。確かに恋は先着順って言うけど、次を待っていたら、人生何十回やり直しても、君はそのままひとりだね」

さらに優秀なカウンセラーは相手のど真ん中に直球を投げる、とマスターは自分の未熟さを知った。

と同時に人は何故、こんなにも他人(ひと)の事が分かるのに、自分のことだけが分からないんだろうと、自分のことだけが分からない優秀なカウンセラー・里美を、まじまじと見た。

「まあ、目指した相手が、君に手を差し伸べてくれるかどうかは、また別の話だけどね」

と、釘を刺すことも忘れなかった。

しかし里美の次の言葉に、釘を刺した言葉とはうらはらに、そっけなさを装った本心が見えた。

「もし、もしもだよ。私のところに泳ぎついたら、手くらい差し伸べてあげるよ、タオルと焚き火は用意しないけど」これが言いたいために釘を刺したのか、と一瞬マスターは思ったが、里美がそんな器用な女ではないことをよく知っていた。

細川は雷に打たれたような顔で隣の里美を見た。

里美も、たった今自分が吐いた言葉に自分でも驚いていた。

瞬時に放電が終わった細川が言った。

「あったかいウィスキーもお願いします。も、もちろんお金は払いますから」

「出前はしてません!うちは」

そう言った里美を含めて細川もマスターも声を立てて笑った。

いつの間にか音が止まっていた。

マスターはガラス扉の裏側に廻り、トニー・ベネットの「I left my Heart in San Francisco」に針を落とした。

なんとなくそんな気分の夜だ。

 

<4>

気がつけばあの日を境に細川の出勤?回数が明らかに減っている。

惚れっぽい里美と、違う星から来た細川。

誰もが口をそろえてミスマッチと言うが、事実をいくら積み重ねて真実には近づけない。

マスターは、酒とこの空間が思わず言わせた本音と真実の不思議をしばらく考えていた。