29 RELAY(父と子の明日)
<1>
閉店間際に電話が鳴った。
店内にあふれる音に比べて明らかに異質だ。
受話器を取ったマスターの顔が輝き、そして曇った。
30分後にかけ直してくれるように、それだけを言うと静かに受話器を置いた。
カウンターに戻り、何事もなかったようにグラスを磨き始めた。
電話は誰かにとって必然でも、誰かにとっては偶然だ。
心の準備もないまま、受話器を取った人間は、一気に誰かの必然に巻き込まれる。
そう言えば今日、店を開けるのと同時に電話が鳴り止んだ気がしたが、気のせいではなかったらしい。
取らなければよかったと後悔したが、誰かの必然は一度で許してくれるほどやさしくはなかった。
ここはCafé&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
蛍の光代わりにサラ・ボーンの「Lullaby Of Birdland」が流れている。
盲目のピアニスト、ジョージ・シアリングの曲で、ジャズのオリジナルとしては数少ない一曲だ。
<2>
最後の客が帰り、一人になった店に、約束どおり30分後の電話が鳴った。
3コールで受話器を取ると、秋本の暗く沈んだ声が再び聞こえてきた。
近くにいるらしい、会えないか?と言うことだった。
面倒な話でない限り、こんな時間に電話なんてしてくるわけがない。
人の目を考え、ここで待っている、とを告げた。
10分後に、CLOSEのカードをさげたガラス扉が開き、外の明かりが差し込んだ。
ガラス扉を開けて入ってきた秋本は、声そのまま形で現れた。
抜け殻のようだ。
最初に感じた予感は当たってしまったらしい。
秋本はカウンターに腰を下ろすと、しばらくそのまま顔を伏せ黙っていた。
マスターは軽い水割りを作り、秋本の前にそっと滑らせ、そして待った。
やがて秋本は水割りに軽く口を付けると、あきらめたように一言を吐いた。
「店を閉めようと思うんだ」
(噂は本当だったのか?)
マスターは風の噂で秋本の店の周りで再開発の話が持ち上がっていると聞いていた。
およそ一ヶ月前にも知り合いのジャズ喫茶がコスプレ喫茶に変わったばかりだ。昼はバロック、夜はジャズ、と徹底した店だった。今やメイド服を着た小娘が「いらっしゃいませ」と迎えるらしい。
時代なのか?
「聞いていると思うが、あの一帯が30階建てのビルになるんだ。うちの店を含めて10軒が立ち退きに応じた。最後までがんばるつもりだったが、周りにも説得された。2年後に戻ってこられると言う条件も出されたが、戻っても、同じ店には絶対にならない。積もり積もった時間が今の店を作って来た。俺も年だ。女房も5年前に逝っちまった。息子は今も海外だ。継ぐ気はもちろんない。だからこの際、きっぱり足を洗おうと思う」
秋本は誰にともなく、独り言のようにここまでを一気に話した。
マスターは黙って聞いていた。
秋本の店に通っていたのは何年くらい前のことだろう。
戦後間もない頃始めた、いわゆるジャズ喫茶だった。
歴史はこんな風に塗り替えられていくのか?
懐かしさと悔しさは秋本と同じだ。
しかし、一番辛いのはやはり目の前の秋本だろう。
「お疲れさまでした」
50年の歴史に幕を下ろそうとする男の心中を察すると、他の言葉が思い浮かばなかった。
<3>
「実は先月、息子に会いに行って来た。店を閉める話もあったが、私の卒業旅行のつもりで」
しばらくの沈黙の後、秋本はいきなりこう切り出した。
マスターもそれ以上の店の話を続けるのはお互いためにならないと感じた。
「息子さん今は、何処に?」
「ウガンダにいる。農業支援だそうだ」
「行ったんですか?アフリカに!」とマスター。
「遠かった、20時間かかった。まあ地球の反対側だからね」
この後、やっといつもの秋本に戻って楽しそうに話し始めた。
息子が秋本のためにとわざわざ取ってくれた言う高級ホテルはわずか8室。夜は2、3時間しか電気が点かず、闇の中で野生の動物に囲まれて眠ったこと。息子の宿舎にも行ってみたが、現地人と一緒の生活で、部屋中に知らない虫が這っているようなところで、息子のたくましい変貌を目の当たりにしたことなど。
「別れ際に息子が言ってくれた。『あの店はみんなに愛されていた。たまたま親父の道楽がみんなのためになったんだ。それでいいと思う。俺もそんな親父の背中を見て育った。だから今、ここにいる』と」
親父から息子へ、形は違うが何かが伝わったんだと、マスターは思った。
30分後、スツールから腰を上げながら秋本は言った。
「何となくこの店、うちの店と雰囲気が似てるね。これから時々思い出に浸りにこの店に顔を出そうかな?」
「実はその通りです。まねしてます、ところどころ。だからいつでも来てください、自分の店だと思って。代わり映えがしないのがうちの取り得ですから」
と言ってマスターは最後は笑いながら秋本を送り出した。
<4>
それから1ヶ月後、秋本は店を閉めた。
午後11時、そのとき流れていたのは奥さんの好きだったマル・ウォルドロンの「レフト・アローン」だったと言う。
ひとつの幕切れに、ジャッキー・マクレーンの切ないアルトの響きは似合いすぎる、とマスターは思った。
この作品は読売新聞の記事をヒントに書かれたフィクションです