31 MESSAGE(時を伝える)
<1>
気がつけば10月になっていた。
秋とその前の季節が微妙に交差しながら9月は去って行った、と小雨に濡れた街のかすかなため息が聞こえる。
マスターは、ガラスケースの裏にかけてある小さなカレンダーの9枚目を破りながら、正確に時を刻む振り子のように生きている人間なんていやしない、と言葉にならない呟きを漏らした。
雨の日の客足は遅い。
ひとりの時間を持て余し、ガラス扉を開けると、湿度98%の風に共に、雨にコーティングをされたレモン色の枯葉が一枚舞い込んだ。
枯葉は落ち葉となってカウンターに軟着陸した。
枝につながれた不自由と、踏みしだかれる哀れの真ん中を舞い続け、ここに安らぎの場所を見つけたらしい。
マスターは、そのレモン色の船をグラスの海に浮かべ、光の下に移動した。
小さな秋は、たった一人の海で、夜の太陽に照らされ、輝きを取り戻したようだ。
<2>
「いいですね、それ」
柄にもない世界をさまよっていたマスターは、背中越しの声に、数秒遅れて振り向いた。
そこには女がひとり、立っていた。
ダークグレーのパンツスーツは、そのシルエットを胸の部分で無残なまでに崩し、大きな瞳に軽くウェーブの掛かった栗色の髪、口元に小さなほくろがふたつあった。大き目のバッグを左肩にかけ、同じ左手にブルーの傘を持っていた。
風がかすかなコロンの香りを運んだ。
その女の魔力?のせいで「いらっしゃいませ」がかすれ気味のマスターに、女が聞いた。
「失礼ですが、経営者の方ですか?」
いきなりそう言われて、マスターは「ハイ」とだけ小さな声で答えた。
まるで授業中に美人の先生に指された中坊、そんな感じだ。
その風貌は歓迎すべき相手なのだが、一体何物だ。
まさか税務署にこんな美人がいるはずもないし。
「新城と言います」と言ってマスターの頭の中を見抜いたようなタイミングで、名刺が差し出された。
いつももらい慣れてるあの角が丸くなっていない名刺だった。
左利きらしい。その薬指にはしっかりとプラチナのリングが輝いていた。
30歳少し前か?いい女は、売れるのも早い。
『ライター・新城あさみ』とある。
それ以外は住所もなく、携帯の数字だけが並んでいる。
いかにも今風の名刺だ。
移動に耐える連絡手段は有効かも知れないが、少なくとも何処の誰の“何処”の部分が省略されている。
そう言えばまだ、ホームレスから名刺をもらったことがない、とマスターの思考回路は一気に宇宙とつながった。
柄にもなく落ち葉と戯れ、美人の先生にたじろぎ、さらには宇宙とつながったマスターの頭の中は脳とそれ以外の何かが詰まっているらしい。
「実は・・・」と、話し始めた女の声で再び現実に戻った。
ある雑誌で ―マスターもその雑誌は知っていた― 男の隠れ家の特集を組むことになり、ひそかなブームになっているジャズバーを彼女が担当することになった、と言う。
この手の取材は何度か受けているが、店の“空気”が表現された雑誌はまだなかった。
少し話しているうちにこの女ならそれを可能にしてくれそうな気がして来た。
女にしてめずらしく、ジャズに詳しい。ハートもありそうだ。
「うちはバーだから、もちろんアルコールを売っているが、メインメニューはジャズだ。ジャズと言う時間を売っている。それを表現してくれるなら取材に応じてもいい」と答えた。
マスターはいつの間にか、いつものマスターに戻っていた。
あさみは考えていた。
― 時間を文字にする。難しいがやれないことではない。この手の特集は様々な雑誌が手を染め、もはやカビが生えつつある。何か新しい切り口が必要だ。それにこんな要求を出す店も珍しい。逆にやる気が出てきた。
「分かりました、やってみます。ご指導よろしくお願いします」言ってあさみは深々と頭を下げた。
その動きにつられるようにマスターの顔も自然と下向きに乗り出した。
わずか数分前、ジャズと言う時間を売っている、と言ったマスターが今、自分の胸に五感のすべてを集中させた視覚だけになっていることなど、下を向いたあさみは知る由も無かった。
<3>
次の日から3日間、あさみは時間をずらして出勤?して来た。
7時、9時、そして10時と。
時間帯により、店の顔が変わるという前提で、あえてそういう方法を選んだらしい。
要するに隠れ家と言う箱を取材するのではなく、そこに流れる時間、その時間を満たす空間を取材するためだ。
あさみは2時間くらい、カウンターで黙ってハイボールを飲んでは帰って行った。
その間、バッグに入ったICレコーダだけが、こま鼠みたいに働いていた。
言うまでもなく、あさみに常連たちの視線が釘付けになったが、軽くあしらった。
影に徹した取材振りだった。
その雑誌が送られてきたのはそれから1ヵ月後だった。
「男の隠れ家はジャズが流れる」
見開きのページにそんなタイトルが付けられ、いつ撮ったのか店の写真も添えられていた。
~
円盤は規則正しく時を刻み、その溝に残されたかすかな記憶は、やさしく、時には激しく増幅されながら単調な回転から解き放たれた音がリストレーション(復元)される。
トランペットが、ピアノが、ドラムが、ベースがその時の音でよみがえり、拍手、ざわめき、グラスの触れ合い、様々な音がかつての空気を伝える。
嵐の後に訪れるしばしの静寂を、ホワイトノイズが埋める。
ホワイトノイズだけが時間と共に変化し、時は再び戻ることがなく、ただ積もって行くことを教える。
アナログの鼓動は、かつて人が置き去りにしたものたちのひとつにも関わらず、今なお命のリズムに呼応する。
記憶のどこかに残された人の自然を呼び起こす。
流れているのは、チャーリー・パーカーの「BIRD ON 52ND STREET」
もちろんBIRDとはチャーリー・パーカー、彼である。
通りの向こうで演奏している音が、風に乗って聞こえてくる、そんな感じだ。
ゆがみ、かすれ、途切れてもなお、BIRDは吹き続ける。
テープのヒスノイズやたるみまでもが、そのまま見事に再現され、ノイズと音楽が張り合いながら回転している。
1948年・春の録音。
なんと60年以上も前の音源だ。
それが何度も繰り返し甦り、甦るたびにひとつ年をとる。
そんな繰り返し甦る古い時間が、今この空間を満たしている。まっすぐ家に帰れない男たちのONとOFFの境界にこの店ある。
ここはCafé&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
ジャズと言う音のシャワーが精神にこびり付いた一日の塵をきれいに洗い流し、さらに大音量のスピーカーから流れる音は聞くというより包まれる、まさに音のゆりかごでしばし癒された男たちの誰もが、ガラス扉を開けた時と違った顔で帰って行く。 文・写真 新城あさみ
<4>
マスターは、最後の一人を送り出したカウンターに腰を下ろし、グラスキャンドルの光で何度か読み返した。
いい文章だと思った。この店に行ってみたいと思った。不思議な感じがした。そして、音を感じた。この雑誌を手に取った誰かに例え伝わらなくても、自分には確かに伝わったと、久々に神棚を見上げながら声にならない呟きをもらした。