32 AL DENTE(フォークソング)
<1>
「なんだ!男か」
乱暴にガラス扉を開けて入ってきた男がいきなり言った。
閉店間際の店に常連が二人、静かに飲んでいる時だった。
男はすでに肝臓との折り合いが付かず、喧嘩別れの状態だ。
ふらつく足取りで、何とかカウンターにたどり着くと
「それにしてもうるせぇ店だな」
と、言いながら持っていた花束をカウンターに投げ出し、やっとのおもいでスツールに這い上がった。
この手の男が花束をもらうのは人生で2回だけだ。
結婚式と送別会だ。
男は「ビール!」といい終わらないうちに、
「あ~あ、最後は美人のママと静かに一杯やりたかったなあ」
と、ひとりしみじみ言い、出されたビールを自分のグラスを満たし後、カウンターにも飲ませている。
マスターもさすがに見ていられず止めに入った。
この辺りの夜は早い。
だから夜の迷い子が、かすかな灯りを目指して、時々ここを訪れる。
そんな招かれざる客の大抵は、その音に圧倒され、ガラス扉の兆番の確認をすると黙って出てゆく。
今日の客はすでにアルデンテほどの蘇生能力もなく、兆番にさえ押し戻されたようだ。
しばらくするとカウンターにうつぶせになり、そのまま動かなくなった。
また音楽のある静けさが戻った。
ここはCafé&Bar/ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
客は選べても、店は客を選べない。
ショーケースのパスタと飾り窓の女は、ただ待っているだけだ。
<2>
送別会は、つつましく、質素に、盛り上がりも見せず、やがて砂に水がしみこむように終わった。
気がつけば、最後の一滴となった自分ひとりが残されていた。
「哀れなもんだね、言うまいと思っていた愚痴もつい出てしまった。ひとり去り、ふたり去り、そして誰もいなくなった、と言うあれだよ。初めての主役だったのに」
まさに誰もいなくなったROOTDOWNで、復活した男に最後の夢を叶えているママは、男だった。
ジュニア・マンスの「THE TENDER TOUCH」が静かに流れている。
「もう一杯だけ、ロックで」と男が言った。
閉店時間はとっくに過ぎているが、マスターはなんとなくこのまま帰すのが可哀相になって、付き合うことにした。
建材会社に入って30年、男は経理一筋でここまで来たと言う。しかしこの不況でいきなり営業に廻された。
同じ頃、早期退職制度が実施された。
ここ10年以上も続く不況に、そのほとんどの会社が人減らしで対処している。
数字だけを相手にしてきた人間が、いきなり生身の人間相手に営業、しかも50を超えて耐えられるわけがない。
自ら進んで退職を申し出た。
多少蓄えもあり、退職金も上積みされた。当面は困らないが、先が見えなくなったことには変わりがない。
最近では特にめずらしくもない話だ。
こんな話にいちいち同情していると、いつの間にか自分もされる側に廻る、そんな時代だ。
マスターは、8月を過ぎても一向に客足の戻らない店のことを重ねていた。
<3>
「そう言えばジャズを聞くなんて機会がまったくなかった。少しでもかじっていれば、話題も増えたろうに。俺の音楽はかぐや姫や拓郎で永久に止まってしまっている。でもあの頃はよかった」
そう言いながら男は遠い日の自分を懐かしんでいるような表情を見せた。
「ありますよ、かぐや姫」
それを聞いた男も、それを言ってしまったマスターも、互いに驚き、顔を見合わせた。
「えっ、あるの?」
「ありますよ、ただし営業部外品なので、一旦店を閉めます。灯りに誘われて常連でも入って来たら、明日からの営業に差し支えますから」
マスターは笑いながらそう言うと、外の灯を落とした。
ガラスケースの裏に回り、いつもとは違う棚から、かぐや姫の「三階建の詩」を取り出した。
まさにお蔵入りに近いそれを、丁寧にクリーニングして針を落とした。
相変らず暗い曲が多い。
『赤ちょうちん』の後に『雨に消えたほゝえみ』が続いた。
「これが終わったら止めてくれ」と男は言った。
マスターはその意味が分かった。次がやたら明るいアップテンポの曲で、まるでシリアスなドラマの間に割り込んでくる脱臭剤のCMのように雰囲気を壊されるからだ。今日は最後まで暗くいたいらしい。
「こんなところでかぐや姫が聴けるとは・・・。よかった。やっぱりよかった。閉店時間はとっくに過ぎているに、ありがとう。あの頃を思い出した、元気も出た」
暗い歌からどんな元気を貰ったのか知らないが、あの乱暴にガラス扉を開けて現れた時の男の顔は、もうそこにはなかった。
<4>
「残業代だ!取っておけ」と言って男は1万円札をカウンターに叩きつけるように置き、何か言いかけたマスターに「俺にも、このくらいの見得ははらせてくれよ」と言って笑いながら出て行った。
その後姿はまるで、ゆでる前のパスタのようにシャンとしていた。
フォークとジャズ、境遇と魂、暗さだけが何故か似ている。
また日の目を見ることがあるのだろうか?と思いながらマスターはジャケットの3人を棚に戻した。
でも捨てられない、マスターにとっても思い出の一枚なのだ。