33 THE REAL TOKYO(ある夜の出来事)
<1>
台風が近づいている。
それもかなり大型で、関東を直撃の様相だ。
雨は強まり、突風に、ガラス扉が揺れる。
マスターはこんな日でも、ここだけを目指してやって来る誰かのために、いつもの通り店を開けた。
店を開いて2時間、ガラス扉を叩いているのは、相変らず風だけだ。
タバコに火をつけ、ゆっくり吐いた。
すきま風にさらわれた煙は、上にではなく横に流れた。
遊び相手を奪われたマスターはガラスケースの向こうに廻り、ソニー・クラークの「Cool Struttin'」に針を落とした。
ハード・バップの嵐が、外の台風と張り合うように店中に吹き荒れた。
このアルバムは、マンハッタンを闊歩するタイトスカートの足が印象的で、それだけでも思わず手にとってみたくなるジャケットだ。このジャケットをしばらく見ていたマスターはまた同じことを考えた。
あの有名なキャパが作った写真家集団「マグナム」のエリオット・アーウィットの撮った犬がジャンプしているこれまた有名な写真といつもラップしてしまい、このジャケットに思わず犬を探してしまうのだ。
それにしても、このタイトスカートの足の持ち主の顔を、ぜひ一度拝みたいものだ・・・。
また馬鹿なことを、とひとりに苦笑いしながら、カウンターに戻るとカウンターの外に先客?がいた。
<2>
「こんばんは。思ったとおり貸切か?」
広告代理店に勤めている広瀬だ。
どこかで軽い食事でも済ませたのか、日焼けには見えない赤が、すでにその顔にさしていた。
「いやあ、待ってましたよ、広瀬さん。今日の売り上げ全部、おひとりでよろしく!」
「おいおい、それはないだろう」
分かりやすい罠は、かかり方で知恵が試される。
「わかった、勝負しよう!負けた方が客になる」
驚いたのはマスターだ。
確かに常連に何度か、「バーカウンターの中って、まさに男のロマンだよ」なんて言われたことがあったが、まさかそれを“賭ける”日が来ようとは。
マスターの日常はそれ以外の人間にとって非日常なのだ。
しかし、そんなロマンは、瞬時でマロンくらいの“ちっぽけ”に変わる。
青いのは隣の芝生ばかりではないのだ。
それにしても、まさか広瀬までも同じようなことを考えていたとは驚きだ。
まあ、遊びが仕事か、仕事が遊びか、とにかく楽しく生きているそんな広瀬が、とっさ考えた暇つぶしなのだろう。受けることにした。どうせ今日は台風だ。
カードもコインもダイスもあるが、なんと言っても男の勝負は素手に限る。
勝負はあっけなく終わった。
マスターはチョキで広瀬がグー。
ここはCafé&Bar/ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
新しいマスターはハイカラーのストライプシャツに派手なネクタイ、メタルのメガネはガラス玉。そして、いつものマスターと違って饒舌だ。
<3>
「こうしてみると、どっちが舞台でどっちが客席か分からなくなるな。見られているような、見ているような」
それでも上機嫌で、自分用のハイボールを作りながら、カウンターの外のマスターに“内(なか)”から話しかけた。
「お客さん、そこに座るの初めてですね?初めての人に失礼な事を言うようだが、もうアルコールは止めたほうがいい。ひとめ見れば分かる。顔が癌だ」
その言葉が終わらないうちマスターは「ありがとう」と言って頭を下げた。
広瀬の冗談はマスターの後頭部をかすめ、壁に当たって自爆した。
「ところでマスター、今日みたいな日に何でわざわざ出勤?してきたの」と客のマスターが聞いた。
「いや実は明日、大事なプレゼンがあって、どうしてもはずせないんだよ。だから近くにホテルを取った。後は寝るだけだ。電車を乗り過ごすこともなく、遠まわりしたタクシーと揉めることもなく、ゆっくり飲める。しかも明日は徒歩で出社。台風万々歳だ」
風速45mと戦っている人たちが聞いたら、間違いなく、風速100mくらいのパンチが飛んできそうだ。
いつの間にか11時も過ぎ、やはり広瀬の言った通り貸切になってしまった。
どっちが貸しきっているのか分からなくなってはいるが・・・。
男ふたり、話題も尽きかけた頃、客のマスターが言った。
「明日のプレゼンってそんなに大事なの?」
「ああ、本当は事前にネタをばらしちゃあ馘首モンだけど、マスターならいいか?」と言いながらその態度は、よくぞ聞いてくれた!と言うように見えた。
実際そうだった。話し始めたら止まらなくなった。
「車のCFで全編モノクロ。音はやっぱりジャズだ。しかし、前半分1分間は黒バックに白い文字が浮かび、音はなし。最近、色や音の洪水で、人間の想像力が退化している。色きちがいや、音きちがいが街にあふれている。それに対するアンチだ。後半、マイルスのペットと、車の絵がフェードインし、ストレートトーンが伸びきったところでいきなりシャットダウン。黒の画面だけが残る。ネットでは最近よく使われている手法だがそれをテレビでやる。」
マスターの頭にもその絵は容易に浮かんだ。
「邪道だとか色ものだとかいわれだろうが、突然音が聞こえなくなり、画面が真っ暗になれば、話題にはなる。そしてそのうち分かってくれるやつも出てくる。これが直接、車の売り上げにどう繋がるかは知らないが、イメージで売れる時代なのは確かだ。話題にもなる。クライアントにもそれで“くすぐる”」
<4>
レコードも勝手に休憩に入り、音の消えた店で
「思ったより疲れるな」
と広瀬はため息をつき、飲み疲れと立ち疲れの身体を、予備で置いてあった丸椅子に沈めた。
「考えてみたら、立ち飲みと変わんないんだよ、こっちで飲んでいると」
(そうだ。やっと気づいたか!広瀬)
美容院も、デパートも、八百屋も、レストランも、黒服も、コンビニも、交番のお巡りも、ティッシュ配りも、もちろんバーテンも、宿題を忘れ廊下に立たされた、あの遠い記憶を活かしてみんながんばっているんだ。座って稼げるのは番台のおばちゃんとキャバ譲くらいだ。
「そろそろ2回戦に入ろうよ」と広瀬はカウンターの中から情けない顔を半分出しながらそう言った。
「いいですよ」
外のマスターは、充分客を味わい?余裕で応えた。
勝負はまたもやあっけなく終わった。
マスターがチョキで広瀬はグー。
疲れ果てた広瀬には、廻る知恵さえもすでに残っていなかった。
<5>
屋根を飛ばし、車を立ち往生させ、街路樹を倒し、多くの爪あとを残した雨や風は、そのすべてを吹き飛ばし、洗い流していったらしい。
台風が去った次の日、晴れ渡った空の下、マスターは初めて素顔の東京を見た。