36 OUTSIDE A ROOTDOWN(異空間へようこそ)
<1>
その店の前にはパーキングメーターがあり、今もバンが一台そこを占領している。
その後ろに小型トラックが一台、遠足の列みたいにくっついて止まっている。どちらも運転席には人影はない。
手前のアスレチッククラブの看板がまるでキャバレーのような華やかさで、その一角を照らしている。
ひとつ向こうの雀荘の張り出した看板が、その店のガラス扉にまるで模様みたいに映っている。
その店の前にはメニュー台と観葉植物が置かれているが、 目の前のバンやトラックは引越しの車で、まるでそれらは積み忘れた荷物のように“座り”が悪い。
メニューには光も当たっておらず、並びの柱に灯りの入った丸いレコードをデザインした看板があるが、その名前はレコードに沿って弧を描いているため、一瞬では読み取れない。
間もなくバンとトラックは思ったとおり、メニュー台や観葉植物を積み残したまま仲良く走り去った。
その後にやっと、その店の全貌があらわになったが、両隣の派手さに比べ、その店を示すものは丸い看板だけ。
メニュー台も観葉植物も闇の中に見事に溶け込んでいた。
ここを目指した人間でなければやはり、通り越してしまいそうないつものそっけない店構えだ。
わずかに洩れているサックスの音と薄明かりが、図らずもその店が空家ではないと教えている。
私はしばらく、そんな店を外から眺めていた。
思ったより音が洩れていることをその時初めて知った。
こんな日があってもいい。
異空間に入るにはそれなりの心の準備が必要だ。
しばらく盗み聞きしながら、なんとなく物足りなさを感じだ。
この際、角の自動販売機でビールでも買ってくるか?
秋も半ば、身体の内と外が微妙に折り合った、実に気持ちいい宵だ。
そんな時、音楽に混じって「ありがとうございました」と言うマスターの元気な声が聞こえた。
ガラス扉が開き、出てきた男の肩越しにマスターの顔があった。
目が合ったマスターが言った。
「いらっしゃいませ」
そんな風に異空間の扉は突然開き、こころの準備も不完全なまま、私はその旅人となった。
とりあえず、迷いも、しがらみも、明日も、きれいに畳んでガラス扉の外に置くことにした。
素肌の心にジャズの衣をまとうために。
ここはCafé&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
<2>
店の暗さになれ、先客がもう一人いることに気づいたのは腰を下ろして、数十秒してからだ。
考えてみればこの空間に夜を感じたことは一度もない。
昼の明るさが去って、夜を感じる。
しかしこの空間に昼を見たこともない。だから夜もないのだ。
いつでも同じようにキャンドルが灯り、最小限の明るさしかない夜でも昼でもない空間。
めまぐるしく変化する下界で生きていると、変わらないものに安堵する気持ちは誰でも同じか?
コルトレーンのサックスがチックコリアのピアノに変わった。「Crystal Silence」だ。
ゲーリー・バートンのビブラフォンの余韻とコリアのピアノが絡み合う。
変わらない空間に流れる、変化し続ける音。
ガラス扉の向こうに相変らずの街。
「マスター、相変らずだね」
私はいろんな意味を込めて、しかし応えを求めない言葉をかけた。
「ええ、相変らずです」
マスターも意味深な笑いを私に返した。
ジャズは疲れるとよく言われる
真剣に聞くと確かに疲れる。
だから私はここに来るのかも知れない。
そんな疲れを感じる頃、酔いが廻ってくる。
音により、ドーバミンが大量に放出され、酒がそれを助け、リラックスし、トランス状態になる。
この頃になってやっと、まとっていた音が身体に沁み、私と空間が一体になる。
すべてが空間と中和して、音と言う時間だけが確実に流れている。
ふと気が付けば、ジャズとアルコールの血中濃度がそろそろ限界に達すると、薄くなった脳が信号を出している。
レコード3枚で、心も身体も開放された私は席を立った。
<3>
ガラス扉を開くと、あいかわらず殺風景な夜の街がそこにあった。
数時間前、脱ぎ捨てきれいに畳んだ私を再び着込んだ。
気のせいかわずかに軽くなっている気がする。
歩き始めた私は、若い男女とすれ違った。
この街の夜は早い。
そして、この時間に開いてる店はこの先にはない。
何気なく振り返った。
思った通り、その二人はROOTDOWNの前で立ち止まった。
しかし、そのまま立ち止まり、入ろうとはしない。
メニュー台の前で固まっている。
いつもの事ながら、入りにくい店だ。
ましてや初心者?に取ってはなおさらだ。
道幅だけが広い、間延びした路地のようなこの道に、今は行き交う人もいない。
持ち出し禁止のはずの音の余韻を味わいながら、しばらく電柱に寄りかかってその様子を見ていた。
おそらく20歳前半の彼らにとって、ジャズの敷居は高い。
マスターのように中学生からレコードを買いあさっていた人間は、きっとみんなジャズバーのマスターになっているのだ。
そんな時、いきなりガラス扉が開き、男が出てきた。
男はそこにいる二人のためにガラス扉を押さえた。
大音量のジャズが道にあふれ出た。
この時二人は、おそらくマスターと目が合ってしまったのだ、私と同じように。
そんな音圧に逆らうように二人は吸い込まれていった。
また静寂が道と街に戻った。
私は迷える子羊が無事納屋に入ったのを見て、再び歩き始めた。
<4>
いつか、彼らとあの店で会うことがあるだろうか?
それとも、二度とジャズバーに足を踏み入れることはないだろうか?
なんとなく会える気がした。
あの店とあのマスターのとの出会いがあれば・・・。
男の事はよく覚えてないが、女の子は150cmにも満たない、小さな顔とまあるいお尻の可愛い娘(こ)だった。