40 USB(もつれ合う闇)
<1>
開店して5時間。休むことなく円盤の溝をトレースしていたダイヤモンドも、何か言いたくなる頃だ。
祭りの後にたった一人残されたような沢木が、グラスを片手にこっちと向こうとの境を絶妙なバランスを取りながらさまよっている。
4杯目のバーボンが、夜勤明けにも関らず突っ走った今日にとどめを刺したらしい。
マスターはダイヤモンドがレジスタンスを起こす前に、ラムゼイ・ルイスの「 Sun Goddess」の3曲目が終わったところでピックアップを戻した。
ここはCafé&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
ダイヤモンドはその輝きよりも、裏方に廻ったその固さに俺は魅かれる、とマスターは誰にとも無くひとり強がりを言った。
<2>
ガラス扉が静かに開き、一人の男が2月の夜気と共に入って来た。
「客じゃあないんだ」と入って来るなりそう言ったが、ふと腕の時計を見て「こんな時間か?」と初めて気づいたかのように言い、「じゃあ、とにかく一杯もらおうか」と言い直した。
そして「水割りを・・・」と付け加えた。
スツールに腰を下ろすと、「沢木と言う雑誌の記者を探しているんだが・・・」と、人肌に温められたお絞りを使いながら言った。
ダークスーツに淡いピンクのシャツ。濃いグレーのレジメンタルタイ。髪は淡い光の中でも部分的に光るほど、整髪料でしっかり整えられている。顔は浅黒く、目つきは髪と同じくらいぎらぎらしている。右手にはその手が隠れるくらい大きな指輪が鈍く光っていた。えらが張ったその顔に疲れの色は見えない。
後、2時間もすれば今日が終わると言うこの時間に・・・。
マスターは、明かりを落としたカウンターの隅で、いつの間にか向こう側に行ってしまって静かになった沢木に声をかけようとして、その言葉を飲み込んだ。
沢木に向けたそんなわずかな目の動きを、この男には感づかれたかもしれないと思いながら、
「いや、知りませんねぇ」と水割りを作るために目線をグラスに落としながら応えた。
“やっかい”を放り投げられて、ありがとうと言って素直に受け取る人間なんてまず、いない。
よけるか、投げ返すかだ。
とりあえずよけてみた。
「そうですか?ここに来れば会えると知人(ひと)から聞いたものだから・・・」
と、言葉は丁寧だが、威圧感のある言い方の最後が途切れた。
そう言いながら男は、今や動いているのは内臓だけのカウンターのオブジェに目をやった。
かすかに寝息が聞こえる。
(気づいているのか?)
静寂に息苦しさを覚えたマスターは、再びダイヤモンドを酷使するためにガラスケースの向こうに消えた。
そして、いつものROOTDOWNに戻った。
いや、心なしかいつもよりボリュームが少し右に傾いている。
音がわずかな隙間にも入り込み、空間のすべてを満たした。
男はここでこれ以上の話をするのは無理だと悟った。
誰かにとって心を癒す音が、この男に取ってはその音に満たされた空間そのものが敵に思えた。
男は残ったグラスを一気に空けると、
「ご馳走様でした」といい一万円札をカウンターに置いた。
マスターがお釣りを渡そうとすると、いやいやと言うように片手を振り、代わりに名刺を出した。
筆文字で相田総研と書かれていた。
(やはりその手の人間か?)
その下に理事・片桐修二とかかれ、住所と電話番号、さらに携帯の番号も書かれていた。
「もし、沢木さんがおいでになったら、面倒ですがここに連絡くれるようにお願いできませんか?」
マスターが黙っていると、
「ご迷惑はかけません、お願いします」と言ってマスターの応えを待たずに腰を上げ、外の闇に消えた。
“やっかい”は一枚の名刺に姿を変え、再びマスターに投げられた。
季節はずれのサンタに、「うちには子供はいません」と、確かにうそを言ったのは自分だ。
しかし、サンタにも2種類いることを知った。
いいサンタと、“やっかい”なサンタと。
<3>
マスターはカウンターに置かれた名刺をぼんやりと見つめながらそんなことを考えていると、突然、暗がりから声がした。
「ありがとう、マスター。助かった」
驚いて顔をそちらに向けると、いつの間にかこちら側に戻っていた沢木の眠そうな笑顔があった。
「片桐ってヤツだろう、さっきの・・・・。総会屋だ。社に何度も電話があって、俺を探し廻っているらしいが、今日はダメだ。いずれ一度会って、かたはつけなきゃあとは思っているが・・・・」
そんな沢木の言い方は、ついさっきの“やっかい”が、実はマスターが考えている以上のやっかいなのだと言っていた。
押し黙ったマスターに、沢木は続けた。
「助けてもらったお礼にもう少し寝言を聞いてくれ。実は今、ある企業の粉飾決算のネタを追っているんだ。それを何処で嗅ぎつけたのか、片桐って奴がそのことで俺と接触したがっているって訳だ。今更総会屋の時代でもないから、あいつらも“しのぎ”を探すのに苦労しているんだよ。あ~あ。誰も聞きたくねぇか、こんな寝言」
そう言うと沢木は、両手で軽く頬を叩いて、
「さて本当に家に帰って寝るか!」と言いながらけだるそうに腰を上げた。
沢木が雑誌の記者である事は知っていたが、ここで仕事の話をした事は一度も無かった。
確かに情報だけが命の記者の口は、溝をトレースしているもの言わぬ石より固くなければいけないのかも知れない。
<4>
それから数週間後、沢木の自宅が荒された。
パソコンのハードが初期化され、データはすべて飛んでいた。しかし沢木はパソコンのデータが何度も飛んだ経験があり、当然バックアップを取っていた。それをUSBに落としていつも持ち歩いていた。当然相手もバックアップの存在には気づいていたはずだ。
壊すことも、持ち去ることもせず、面倒な初期化したのは、警告を意味していた。
「間違いなく俺は、トラのしっぽを踏んでいる!」
荒された部屋に佇み、沢木はそう確信した。
その後しばらく顔を見せなかった沢木がある日、閉店間際のROOTDOWNにホルマリン漬けのような姿で現れ、店の空気が一瞬にしてどこかの研究室に変わった。
「没になった」
スツールに腰を下ろすとそれだけをボソッと言った。
こんな風に闇に消えて行く真実が一体どれだけあるんだろう、とマスターはそんな沢木を見て思った。もしかしたら表と同じくらいその裏がありそうな気がしてきた。
いずれにせよ、上からの一言で沢木のここ何ヶ月かの行動とそのデータは、闇に葬られることなったことだけが事実らしい。
沢木はカウンターの上で両手を組み、その上にあごを乗せ、じっと目の前のグラスの中の泡の行方を見つめるだけで、口をつけようとはしなかった。
闇を閉じ込めたUSBはグラスの隣で何も言わず捌きを待っていた。
ウィントン・ケリーの「It's All Right !」が終わった時だった。
沢木は突然「イッツ、オーライ」と言うと、グラスの中に静かにUSBを落とした。
USBとハイボールの泡がグラスの中で、いつまでももつれ合っていた。